パズルゲームに没頭する人間の特徴
私の母親はパズル系のゲーム中毒者である。予定がない時間の大半をゲームプレイに費やしている。20年前から遡ると、ぷよぷよ、色を組み合わせる系ゲーム、ソリティア、テトリス、ツムツム……と、頭を使わない系ゲームに夢中だ。
いや、頭は使うか。「法則に従って同じことを繰り返すだけ」という、機械的ゲームばかりにハマっているのである。
学生時代にあった、今でも忘れられない思い出がある。朝8時くらいの話。家を出る際に、パソコンでテトリスをしている母親を見かけた。朝だから、窓外からの光が明かりになっていて、ライトはつけていない状態だ。
それから12時間後、部活を終えて帰宅すると、暗闇の中でテトリスをしている母の姿があった。そう、朝から同じ体制でずっとテトリスを続けていたため、電気をつけるタイミングがなかったのだ。徐々に真っ暗になっていったので、暗闇にも目が慣れてしまっていたのだ。
ドン引きである。
最近はツムツムにハマり中だ。ツムツムは、完全一人プレイのテトリスとは違って、他人からハートなるライフポイントを受け取ることで遊べる回数が増える。他人を巻き込む系ゲーなのである。
なので、毎日宗教勧誘のごとく、LINEで「ハートくれ」「ハートくれ」とメッセージが送られてくる。実家に久しぶりに帰宅しようものなら、「スマホを貸せ」とスマホを奪われる。
一体何が彼女をそうさせるのだろう。
どのような心理状態でプレイしているの?
パズル系ゲームはRPGと違って、同じことを繰り返すだけの単純ゲームである。ゲームごとにルールが変わるわけでもなく、己自身のレコードを塗り替えることだけがモチベーションとなる。もちろん、好結果が出たところで、何かをもらえるというわけではないのに。
そもそもこのようなパズルで遊んでいる間、ゲーマーたちは何を考えているのであろうか。感情はあるのだろうか。
暇を埋めるための趣味として
一日をゲームするだけで過ごせるというのは、そもそも「暇」であるからに違いない。他に趣味を作るなりして、充実した時間を過ごせば良いのに、と他人に言われがちだが、この人たちにとってゲームをする時間は無駄なものではないのだ。ゲーム自体が趣味なのである。
というよりも、我々全人類、「ゲーム」というものに対する偏見がありすぎる。趣味で「毎日釣りに行く人」「運動に打ち込む人」「パチンコに通う人」「一日中ゲームをする人」……これらに一体何の違いがあるというのか。どうしてその人の時間の使い方に優劣をつけるのか。
「いやいや、ゲームしてても得られるものなくねwww」とか言っている人に問いたい。ならお前は日々何をして過ごしているのか?
例えば、テニスを趣味としている人。テニスをすることで何か得られるのだろうか?体力、他者との交流、反射神経・・・色々思い浮かぶかもしれないが、それって本当に重要?結局、自己満の世界でしかないのではないか?包括して「充実感」を得られる、ということだろうか?
ゲームで考えてみよう。確かに、テニスと違って体力もつかないし、個人プレイゲームでは、他人と交流する機会もほとんどない。しかし、プレイするその人なりの「充実感」は残るはずである。テニスで得られる「充実感」と大差はないのではないか?優劣関係なんて作れるものではない。
例えば、電気も通っていない過疎地で自給自足な充実した生活を送っている人たちに対して都会の人間が、「ネット環境も車もなくて可哀想に!」と思い上がるのと一緒である。一日中ゲームをしてようが、他人に迷惑をかけず、本人たちが幸せであればそれでいいのだ。それが、彼らなりの暇つぶし方法なのだ。
中毒症状
タバコやクスリと一緒で、パズルをし続けるという行為が日常となってしまっているのが彼らの特徴だ。「法則に従って機会的な思考を繰り返す」というゲームの基本行為そのものが、気持ちを整えるための安定剤となっているのだ。
それを取り上げようものなら、禁断症状でストレスがすぐに溜まるだろう。母の場合、ツムツムをしている最中に話しかけると怒り出すくらいだ。それほどに熱中しているのである。スマホが壊れた日にはどうなるか見ものである。
パズルゲームで遊ぶ回数が増えれば増えるほど、同じ動作を繰り返すことになるので、その思考回路パターンが脳みそに深く刻まれていく。学習だ。一種のプログラミングだ。一度、脳みそに定着したプログラムは、記憶喪失でもしない限り、ちょっとやそっとじゃ薄めることはできない。
一生、パズルにとらわれるしかないのだ。
ちょっとした意地
これまで毎日続けてきたゲームを急にやめることはなかなかできることではない。もしある日、「このパズルを今後も続けていくべきなのか……」と我に返ったとする。しかし、これまでの習慣を突然打ち切りにするのは、覚悟がいるものだ。そんなことを考えているとストレスが溜まるだけなので、とりあえずいつも通りパズルゲームでも始めよう、となるのだ。習慣というよりも意地の部分の方が大きいかもしれない。
幸せの定義は人それぞれ
そんなこんなで言えることは、パズルゲームはこの種の人たちにとって、一種の安定剤なのである。定年退職後に生きがいを失って燃え尽きる人をよく見かけるが、「パズルゲームで毎日遊ぶ」ことは、サラリーマンが「毎日職場に向かう」くらい重要なライフワークなのである。「充実感」は人それぞれなのである。何度もいうが、優劣はつけられない。
一日中ゲームをしている人たちに対して、「もっと意義のある体験をさせたい!」と考えている人たちが、自己満でしかないのだ。何様だ。己の基準で物事を測るな。
フリーランスの人たちからしたら、「サラリーマンは独立すべきである」と思うかもしれないし、サラリーマンからしたら、「フリーランスは組織に所属して安定を手に入れるべき」と思うかもしれない。
幸せの基準を勝手に決めるべきではないのだ。